2007年 12月 08日
2007年12月5日、シュトックハウゼンが亡くなったことを、シュトックハウゼン財団からのメールで知った。 シュトックハウゼンは、死がすべての終わりではなく、いわば魂の帰郷であることを「信じている」人ではなく、「知っている」人だった。シュトックハウゼンの周囲の人々もその思いは共有していたと思う。財団からのメールでも、「シュトックハウゼンは常々、≪神が私に命を与えた、そして故郷へ呼ぶのだ≫と語っていた」とある。だから、絶望的な気持ちになることはないのだが、それでも、同じ時代を生きる人間としてお会いすることがもうないことはつらい。 メールに添付された文章(シュトックハウゼンのHPからも入手できる)の扉に 私の生涯は極端に一面的なものだ、スコア、録音、映像、著作といった作品がすべてだ。それが音楽に形作られた私の精神であり、私の魂のさまざまな瞬間からなる音の宇宙である。(2007年9月25日) とあった。シュトックハウゼンは勤勉な作曲家であった。少年時代を戦争に翻弄され、16歳でほとんど孤児として終戦を迎えた。働きながら勉強して高校に編入、さらに地元の音楽大学に進んだ。シェーンベルクら戦前の音楽の先端にふれたのは20歳を過ぎてからである。その分、勉強できるということがうれしくてたまらなかったという。「ほかの作曲家は作曲して2時間もするとコーヒーブレイクをとって、その休憩がうれしくてたまらないらしいけど、自分は事情が許すなら一日中でも作曲していたい。音楽家になるぐらいなのに、仕事より休憩が楽しいという感覚がわからない。」みたいなこともどこかで読んだ。残された仕事の質、量を考えると頷ける。 添付文章の後半に「シュトックハウゼンは、人が神に耳を傾け、神がその子達の声を聴くように、天界の音楽を人間へ、人間の音楽を天界の存在たちへもたらすために生きてきた。」とある。ヨーロッパ音楽の出発となった中世には、「地上の音楽は天界の音楽の反映である」と教えられていた。バッハ以後のクラシック音楽の世界ではあまりそういうことは表立って言われなくなった。その流れにさからってシュトックハウゼンは歩み続けた。 最後に、今年の夏のシュトックハウゼン講習会のサイン帳に書き記したことを再録する。 シュトックハウゼン、あなたは普遍への道を示してくれました。たいへんありがとう。 ■
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by detousbiens
| 2007-12-08 16:00
| シュトックハウゼン
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