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チェンバロハウス通信

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2008年 12月 20日

ハウスコンサートその後

 ハウスコンサートが終わって1ヶ月も過ぎた。11月9日、11月16日の2回とも満員のお客様に来ていただいた。来てくださった方々、本当にありがとうございました。
 さて、ハウスコンサートとなると、それを機会に自分の中で何か隠しテーマを設定して追求しようという気になる。今回はアメリカの音楽学者でレ・ザール・フロリサンに「修辞学者」として協力したこともある Patricia Rarum の The Harmonic Orator という本を読んで、言葉と音楽の関係をあらためて勉強することにした。
 この本は、1660~1730年頃のフランスバロック音楽について、フランス語詩の構造や朗誦法がどのように音楽化されているかを、約500ページ使って懇切丁寧に説き明かしている。ページ数を使うことを恐れず、予備知識のほとんどない読者に手取り足取りという感じで「実際にできるように」導くというスタイルがいかにもアメリカの本らしく、たいへん良かった。(ヨーロッパの本は理論的に美しく書かれているけど、親切ではないことが多い。その意味では日本の学者の本に似ている。アメリカの本は、学者の本でも実用書のように本文の内容が図解され、章ごとにまとめと理解度を確かめるための練習問題がついていることが多い。これはやはりアメリカの美点だと思う。)
 それで、今回は The Harmonic Orator に集中できたかというと、もちろんそんなことはなく、興味はどんどん脱線していった。まず他の言語の詩学にも興味がわいてきた。日本語の詩学については梅本健三の「詩法の復権」というたいへん興味深い本に出会えた。そんなわけで、2009年のレクチャーシリーズは歌詞と音楽の関係についての入門講座にしようと考えている。
 もうひとつは、バードとクプランをならべて弾くことの意味を考えようとして、中世~ルネサンス~バロックの音楽スタイルの変遷にポピュラー音楽の影響が大きいのではないかという仮説に思いいたったことだ。これは大きなテーマなので、項を改めて書こうと思う。

# by detousbiens | 2008-12-20 14:33 | コンサート案内
2008年 10月 05日

鍵盤楽器の演奏法

コンサート本番まで気楽に書いていこうと思いながら、なかなか難しい。あっという間に一週間たってしまった。CDの紹介や歴史の話を書こうと思っていたのだが、時間に少し余裕があると根本的な問題にとりくみたくなる。

私の鍵盤楽器奏法の立脚点は3つある。

第1は身体技法だ。スポーツに、体の仕組みについての知識と合理的な練習法が効率的であるように、鍵盤楽器の演奏にも身体技法が大いに役立つ。音楽は、演劇やダンスのように動きの藝術である。身体感覚が身につくと、楽譜も動きの軌跡として見えてくる。そこまでいかなくとも、体に無理を強いないことは楽だ。

第2の立脚点は、言葉と音楽の関係についての知識である。何といっても西洋音楽の主流は声楽だ。とりわけ、バロック音楽は声楽がメインで器楽はデザートのようなものだと思う。そうなると、独力で歌詞を読み込むことは難しくても、対訳をみながら何を言っているか分かる程度には語学ができないとおもしろくない。
西洋には数理的ともいえる詩法の伝統がある。西洋音楽のフレージングはもともと詩法に基づいている。要求が高いかもしれないが、ラテン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語などの韻律法を知らないで演奏するというのは(声楽であれ器楽であれ)、知らない言語で演じている役者のようなものだと思う。

第3は哲学である。西洋の精神史に学べることは多い。身体的な技術に優れても、西洋音楽の修辞法を身につけていても、西洋の人々が長い歴史のなかで希求してきた思いに心が閉ざされているのでは悲しい。

西洋の精神史を知るためには、いわゆる「哲学」はまわりくどい。西洋には哲学的な詩や宗教的な詩が多いので、詩を入り口にしてはどうだろうか。韻律法の勉強もできて一石二鳥だ。

# by detousbiens | 2008-10-05 13:20 | 日本人と西洋音楽
2008年 09月 27日

久しぶりのハウスコンサート

 11月9日(日)と16日(日)、昨年の夏以来のハウスコンサートをすることにした。久しぶりの自主公演になる。ここ数年、演奏の身体技法を学んできて自主公演は休んでいた(ソロはほぼ2年ぶり)。再開にあたって何を弾くか迷ったが、チェンバロ音楽のなかでもっとも好きなウィリアム・バードとフランソワ・クプランの作品を中心にプログラムを組むことにした。
 バードはイギリスのエリザベス一世時代の作曲家で、1543年の生まれで1623年に亡くなっている。1543年といえばポルトガル人が種子島に来た年である。同じ名前のウィリアム・シェイクスピアは1564年の生まれ。シェイクスピア劇に登場する流行歌の数々をバードもとりあげて、チェンバロ曲にしたてている。
 バードの時代から100年以上を経て、フランソワ・クプランはフランスのルイ14世時代を生きた。ヴォルテールはルイ14世の時代を、古代ギリシア、古代ローマ、イタリアルネッサンスとならび、さらにそれらを超えた人類文化史上最も輝かしい時代と呼んでいる。フランス国王の栄光が演じられたヴェルサーユ宮殿に勤めながら、後の時代のショパンにも似て、クプランは内気で完璧主義的な作品を書いた。
 ストラヴィンスキーは晩年、「いまあなたが一番楽しめる音楽は何ですか?」と聞かれて「私は、イギリスのヴァージナリスト(バードやその同僚ブル、ギボンズらのこと)をひいてみるごとに、かならず楽しみ、失望したことがない。それからクープラン、・・・」と答えている。20世紀音楽への興味からバッハ以前の音楽に入った私としては、両者を結ぶ糸を見つけたい。
 ハウスコンサートの本番まで、バードやクプランの音楽について、また文化的背景や現代とのつながり、練習過程で気づいたことなど、気のおもむくまま書いていければと思う。

# by detousbiens | 2008-09-27 00:29 | コンサート案内
2008年 01月 01日

音楽の哲学(その3)

 わたしたちの時代の課題は、人類意識を育てることである。日本人の場合は、日本文化と西洋文化との出会いを実りあるものにすることが大きな課題である。
 大雑把な言い方をすれば、日本文化は分離を抑圧しているのに対して、西洋文化は分離から出発している。別の言い方をすれば、日本文化は和を尊重し、西洋文化は個性を尊重する。
 ところが、洋の東西を問わず、いわゆる精神性の高い人の説くところは、oneness(1つであること)である。それで単純に日本文化の方が優れているように錯覚する人もけっこういる。
 しかし、そうではない。
 日本文化には和を尊重するあまり、分離感が生ずることへの抑圧がある。「村八分」とか「出る杭は打たれる」などの言葉によって表される社会的経験に日本で暮らす人は思い当たるであろう。
 また「和」をうたっていても無差別な受容を実行しているわけではない。日本人は善悪というより美しさを行動の基準にするという説があるが、これが曲者で、清らかさを尊ぶ感覚が「穢れ」への差別・抑圧・抹殺として現れやすい。

 一方、西洋の分離の立場は、今や地球規模の危機である南北問題(貧富の格差の問題)、環境破壊を生んだ。西洋文化が世界を牛耳った背景には西洋の学問があるが、西洋の学問は「自分とは分離した対象として世界の物事を見ることができる」という素朴な見方に依存してきた。客観的な認識が究極的な真理への道として可能であるという大きな錯誤があった。
 これと似た態度の芸術における現れが、客観的対象として「作品」が成り立つという錯誤で、19世紀にはコンサートホールや美術館にあるのが芸術だという思いこみにまでなってしまった。

 いわば反対方向に迷った二つの文化が19世紀中頃に出会ったわけだが、重要なことは、現代の状況がここに留まらないことである。
 20世紀初頭に、西洋の学問は客観的な手段でもって客観性が絶対的なものとしてはなりたたないことを知る段階に至った。数学の基礎をめぐる論争や量子力学の誕生にまつわる論争を調べるとそのことがよくわかる。(興味のある方は、ゲーデルの不完全性定理やハイゼンベルクの不確定性原理などの言葉を手がかりに検索されるとよい)
 芸術の分野でも、20世紀初頭に、伝統的な調性にとらわれない音楽や、目に見える風景にとらわれない美術が現れてきた(文学については19世紀からその変革は始まっていると思う)。

 日本人は古い西洋と新しい西洋に出会わねばならない。
 事態をややこしくしているのは、西洋の自己変革から約100年が過ぎたにもかかわらず、学問の世界でも芸術の世界でも、この新しい波が(程度の差はかなりあるとはいえ)西洋においても日本においても一般大衆のレヴェルには浸透していないことである。コンピュータ、核技術、映画音楽、街のオブジェなど、応用結果は現代の生活に欠かせないものになっているにもかかわらず、その根本的な考え方に対する拒絶反応はまだまだ強い。

 ここには現代の西洋と日本が共通して直面している問題がある。

# by detousbiens | 2008-01-01 04:10 | 音楽の哲学
2007年 12月 30日

音楽の哲学(その2)

 日本人が西洋音楽を学ぶということは、西洋人が能や歌舞伎を学ぶのに似ている。当然、多くの障害がある。それらの障害を大雑把にいうと、①身体のつくりや所作の違い、②言語の特性の違い、③哲学(世界観)の違いである。これらは乗り越えがたいが、互いの立場を想像することは可能である。
 しかしながら、日本では「和魂洋才ではいけない」でもとりあげたとおり、本質的な部分(魂)を排除して、表面的な結果のみをとりいれようとする態度が、無意識的あるいは意識的にも強い。
 なぜなら「相手の立場を想像する」ということは、自分自身の根本的な変化につながるからである。日本人は「日本人であること」にこだわる人が多い。外国との比較が問題になるとき、「わたしたち日本人は」と言ったり書いたりする人が多いことにもそれは端的に現れている。日本人の日本人性を規定している哲学は無意識的なものである。表面的には変幻自在であるが、核の部分は無意識的であるだけに頑として変らない。もっと言うと排他的である。
 西洋音楽は、「西洋」とわざわざいうのが不自然なほど日本人にとって身近な存在になっている。それにもかかわらずその本質が理解されることは少なく、日本人の実践する西洋音楽は「どこか違う」し、それを鑑賞するポイントも「どこか違う」。これまでは、「日本人が西洋音楽に接してそれほど間がないのだから、理解がおよばないのは仕方がない」という人も多かったが、「理解がおよばない」というよりむしろ、かなり無意識的ではあるが「理解したくない」という面が強いのではないかと、私には思える。
 しかし、物質的な側面では国際化が既成事実である世界で、精神面において排他的でいることは危険である。勇気を奮って、自己変革を恐れずに、他文化の魂を理解しようと努める必要がある。                                              

# by detousbiens | 2007-12-30 09:57 | 音楽の哲学