チェンバロハウス通信

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2007年 06月 13日

久しぶりの更新

 ブログ、ホームページとも更新できないまま1年が経ってしまった。ときどき「更新がないようだが、教室はされていますか。」とお問い合わせを受けるが、大丈夫です(また、まれにメールの不着事故があるみたいで、心配だ)。むしろ、この1年は新しい出会いが多く、教室もずいぶん忙しくなった。
 ただ、勉強に専念するため、去年、今年と演奏会はできるだけ減らすことにしている(今年はハウスコンサートをお休みするつもり。ただ、デュオやレクチャー、音楽療法関係のセミナーや演奏はするので、ホームページをご覧下さい)。おかげで書くべきことはずいぶんたまってきたが、もう少しこなれてから発表していきたい。
 去年は2年前から続けている身体技法の探求のほか、音楽史、臨床心理学関係の本を読みあさった。今年のメインテーマは
 *身体技法としての音楽(継続)
 *シュトックハウゼンの音楽
 *音楽療法
になりそうである。
 哲学のある音楽をもとめて、ずいぶん色々なことをしてきた。
 常に「そこにある」のがヨーロッパと日本の文化の違いである。
 表面的で複雑なことはごましやすいが、核にある(しかも本当は表面的にいたるところにある)単純なことを理解し、習得するのはほんとうに難しい。
 異文化に橋をかけるということは、「命がけ」のことである。
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# by detousbiens | 2007-06-13 15:29 | 日本人と西洋音楽
2006年 04月 30日

「教育基本法改正案」について その1

 4月28日、教育基本法の改正案が国会に提出された。教育にたずさわる者にとって重大なニュースである。現行の教育基本法は前文と11条とからなっている短い法律であるが、教育の理念が明瞭に表現されている。一方、改正案は前文と18条からなっている。改正案と現行法を対照してみると、この改正案が教育政策の根本的な転換であるとともに、日本思想史上の大事件というべきものでもあることがわかる。
 まず前文では、現行法、改正案ともに「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」ことが理想として挙げられていて、この理想の実現のために教育があるとされている。その教育の具体的な内容は、現行法「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」に対して、改正案「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」となっている。
 ともに、何気なく読み飛ばせば良いことづくめのようであるが、注意深く読めば、現行法の首尾一貫性に対して、改正案は無内容な美辞麗句であることがわかる。ついでながら、「真理と平和」が「真理と正義」に代えられていることも教育現場に大きな影響を与えると思うが、思想的に重要なのは後半で、現行法が「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化」としているところを、改正案は「豊かな人間性と創造性、伝統を継承し、新しい文化の創造」と置き換えている。
 問題は、「豊かな人間性と創造性」と「伝統の継承」と「新しい文化の創造」とが時として対立する理想になりうるということである。もちろん、多くの局面でこれらは両立しうると思うし、両立させていきたい理想ではあるが、「豊かな人間性と創造性」と「伝統の継承」が対立するものになったり、「伝統の継承」と「新しい文化の創造」が対立する可能性はゼロではない。かりにこれらが対立したときに、改正案にはどちらを優先すべきかについての基準がないのである。
 一方、現行法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化」は、「豊かな人間性と創造性」、「伝統の継承」、「新しい文化の創造」が葛藤したときに判断基準となりうるより上位の価値基準である。どうしてこの基準を捨てて、矛盾を内包した文言に置き換えなければならないのだろうか。改正案では、「豊かな人間性と創造性」が優先されるか、あるいは「伝統の継承」が優先されるか、「新しい文化の創造」が優先されるかは、結局権力をもった人の恣意的な判断にゆだねられることになってしまうのではなかろうか。(この項続く)
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# by detousbiens | 2006-04-30 03:51 | 教育
2006年 03月 05日

「和魂洋才」ではいけない

 「和魂洋才」という言葉は古めかしい響きだが、今でも使われる言葉だし、また口に出して言わなくても同じような考えを持つ人は結構いるようである。私は「和魂洋才」という考えを捨てないかぎり日本の未来は貧しいままだろうと思う。
 「才」つまり技術は「魂」と切り離してはならない。私の経験では、ヨーロッパ哲学の技術もヨーロッパ音楽の技術もヨーロッパの魂の現れである。少し例をあげると、ヨーロッパ音楽の演奏に必要とされる「円を描いてはねあがるリズムの取り方」に基づく「軽やかさ」は古代ギリシア以来の合理精神の軽やかさに通じ、「音を直線的に押し出すのではなく空間にボール状に広げていく感覚」はキリスト体験につながっていくように思う。
 こういう「身体による気づき」は、論証することができず、実際に体験してみて各人が確認する、あるいは疑問をもつ、あるいは否認するしかないことだが、そういうあり方しかできない知識があまりに軽視されているように思う。
 おそらく実際には、「洋才」を必要とする現場(そうでない現場は今の日本では少ないと思うが)にたずさわる人は、現場の作業を通じて「洋魂」を心のどこかで体験していると思う。しかし、その体験がそのようなものとして認識されず、「和魂洋才」という本来無理な思想が、その貴重な体験を思想化するさいの障害となっている。つまり「和魂洋才」に縛られているかぎり、自己の体験を文化の豊かさへと結びつけることができないのである。
 かつては「和魂漢才」といわれたように、中国との交流においても同じような思想的貧しさの伝統があった。微力ながら「洋魂」「漢魂」の理解に尽くすことができればと思う。
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# by detousbiens | 2006-03-05 14:31 | 日本人と西洋音楽
2006年 01月 24日

フランス料理とフランスバロック

 日本人の実践している「西洋音楽」は、西洋音楽と別物になっているのではないか、と高校生の頃から思っていた。その変化が創造的な方向に向かっているのか、それとも、そうでないのか、また、その変化のメカニズムはどのようなものか、この疑問はその頃からの宿題である。
 この主題に関して衝撃をうけた経験のひとつに、パリの街中の小さな老舗レストランで食べたフランス料理がある。それは、日本での「フランス料理」とは全く違って、エネルギーに満ち溢れ、知的に構築され、しかも美的に洗練されていた。日本で食べる「フランス料理」にもおいしいものはたまにあるが、圧倒的なパワーを感じさせられることがなかなかない。感覚的な洗練が前に出すぎて、知性とパワーが前面に出てこない。「日本人の西洋音楽」にも同じことが感じられる。
 もうひとつ、衝撃をうけた経験にフランス人ダンサーの踊るバロックダンスがある。チェンバロのレパートリーの重要な一分野に、17~18世紀のフランスバロック音楽がある。非常に洗練された宮廷音楽で、チェンバロという楽器の響きの美しさをもっとも追求したレパートリーだと思う。この時代の音楽は舞踏(バロックダンス)と密接に関連していて、踊りを知らないとなかなか音楽がみえてこない。バロックダンスは多くの人の努力で復活されているので、どんなものか少しは知っているつもりだったが、そのフランス人のダンサーが踊るのもみて、料理と同じく圧倒的なパワーが基本になっていなければ無に等しいことがよくわかった。
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# by detousbiens | 2006-01-24 00:36 | バロック音楽
2006年 01月 22日

はじめに

 チェンバロハウスのホームページと並行してこのブログを開設することにしたのは、次の3つの動機からである。
 まず、第1にホームページの更新が滞りがちで申し訳ないこと。
 第2に教室運営のために投稿できるページが必要なこと。
 もうひとつ、大きな要因に、研究に多くの人の協力が必要となってきたことである。
 副題に「音楽、哲学、言葉、身体」と書いたように、チェンバロハウスでの音楽教室や演奏活動には、哲学や諸外国語、さまざまな身体技法の研究が欠かせない。
 チェンバロハウスの主な活動はルネサンス~バロックの音楽に関するものだが、この時代の音楽を知れば知るほど、現代日本人の「音楽」という言葉が誤解を招きやすいものであることがわかる。
 ルネサンス~バロックの音楽はヒューマニズムの一翼を担うものとして、総合的な文化体系の一部分として理解しなければならない。だから、音楽が学問にも、健康法にも、また瞑想の手段ともなる。
 そういったことを実践していこうとすると、チームを組んだ方が上手くいくのではないかと思う。そのための道具として、このブログが機能しますように。
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# by detousbiens | 2006-01-22 23:50 | 自己紹介