チェンバロハウス通信

cemhaus.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:音楽の哲学( 3 )


2008年 01月 01日

音楽の哲学(その3)

 わたしたちの時代の課題は、人類意識を育てることである。日本人の場合は、日本文化と西洋文化との出会いを実りあるものにすることが大きな課題である。
 大雑把な言い方をすれば、日本文化は分離を抑圧しているのに対して、西洋文化は分離から出発している。別の言い方をすれば、日本文化は和を尊重し、西洋文化は個性を尊重する。
 ところが、洋の東西を問わず、いわゆる精神性の高い人の説くところは、oneness(1つであること)である。それで単純に日本文化の方が優れているように錯覚する人もけっこういる。
 しかし、そうではない。
 日本文化には和を尊重するあまり、分離感が生ずることへの抑圧がある。「村八分」とか「出る杭は打たれる」などの言葉によって表される社会的経験に日本で暮らす人は思い当たるであろう。
 また「和」をうたっていても無差別な受容を実行しているわけではない。日本人は善悪というより美しさを行動の基準にするという説があるが、これが曲者で、清らかさを尊ぶ感覚が「穢れ」への差別・抑圧・抹殺として現れやすい。

 一方、西洋の分離の立場は、今や地球規模の危機である南北問題(貧富の格差の問題)、環境破壊を生んだ。西洋文化が世界を牛耳った背景には西洋の学問があるが、西洋の学問は「自分とは分離した対象として世界の物事を見ることができる」という素朴な見方に依存してきた。客観的な認識が究極的な真理への道として可能であるという大きな錯誤があった。
 これと似た態度の芸術における現れが、客観的対象として「作品」が成り立つという錯誤で、19世紀にはコンサートホールや美術館にあるのが芸術だという思いこみにまでなってしまった。

 いわば反対方向に迷った二つの文化が19世紀中頃に出会ったわけだが、重要なことは、現代の状況がここに留まらないことである。
 20世紀初頭に、西洋の学問は客観的な手段でもって客観性が絶対的なものとしてはなりたたないことを知る段階に至った。数学の基礎をめぐる論争や量子力学の誕生にまつわる論争を調べるとそのことがよくわかる。(興味のある方は、ゲーデルの不完全性定理やハイゼンベルクの不確定性原理などの言葉を手がかりに検索されるとよい)
 芸術の分野でも、20世紀初頭に、伝統的な調性にとらわれない音楽や、目に見える風景にとらわれない美術が現れてきた(文学については19世紀からその変革は始まっていると思う)。

 日本人は古い西洋と新しい西洋に出会わねばならない。
 事態をややこしくしているのは、西洋の自己変革から約100年が過ぎたにもかかわらず、学問の世界でも芸術の世界でも、この新しい波が(程度の差はかなりあるとはいえ)西洋においても日本においても一般大衆のレヴェルには浸透していないことである。コンピュータ、核技術、映画音楽、街のオブジェなど、応用結果は現代の生活に欠かせないものになっているにもかかわらず、その根本的な考え方に対する拒絶反応はまだまだ強い。

 ここには現代の西洋と日本が共通して直面している問題がある。
[PR]

by detousbiens | 2008-01-01 04:10 | 音楽の哲学
2007年 12月 30日

音楽の哲学(その2)

 日本人が西洋音楽を学ぶということは、西洋人が能や歌舞伎を学ぶのに似ている。当然、多くの障害がある。それらの障害を大雑把にいうと、①身体のつくりや所作の違い、②言語の特性の違い、③哲学(世界観)の違いである。これらは乗り越えがたいが、互いの立場を想像することは可能である。
 しかしながら、日本では「和魂洋才ではいけない」でもとりあげたとおり、本質的な部分(魂)を排除して、表面的な結果のみをとりいれようとする態度が、無意識的あるいは意識的にも強い。
 なぜなら「相手の立場を想像する」ということは、自分自身の根本的な変化につながるからである。日本人は「日本人であること」にこだわる人が多い。外国との比較が問題になるとき、「わたしたち日本人は」と言ったり書いたりする人が多いことにもそれは端的に現れている。日本人の日本人性を規定している哲学は無意識的なものである。表面的には変幻自在であるが、核の部分は無意識的であるだけに頑として変らない。もっと言うと排他的である。
 西洋音楽は、「西洋」とわざわざいうのが不自然なほど日本人にとって身近な存在になっている。それにもかかわらずその本質が理解されることは少なく、日本人の実践する西洋音楽は「どこか違う」し、それを鑑賞するポイントも「どこか違う」。これまでは、「日本人が西洋音楽に接してそれほど間がないのだから、理解がおよばないのは仕方がない」という人も多かったが、「理解がおよばない」というよりむしろ、かなり無意識的ではあるが「理解したくない」という面が強いのではないかと、私には思える。
 しかし、物質的な側面では国際化が既成事実である世界で、精神面において排他的でいることは危険である。勇気を奮って、自己変革を恐れずに、他文化の魂を理解しようと努める必要がある。                                              
[PR]

by detousbiens | 2007-12-30 09:57 | 音楽の哲学
2007年 12月 11日

音楽の哲学(その1)

 以下の文章は、ホームページ用に書きかけたものであるが、完成には時間がかかると思うので、少しずつこのブログにも載せておいて、批評をあおぎたい。

 日本の音楽に哲学がない、とはよく聞く嘆きである。
 音楽の哲学とは、音楽の本質を問うことである。
 音楽教育や音楽療法において、それは必要なことである。にもかかわらず、この分野に対する懐疑心も強い。

 真の音楽家は、音楽の現場においてのみ、音楽の本質が現れることを知っている。それゆえ、理論的考察によって音楽の本質が明らかになるという考えに懐疑的になるのは当然である。
 一方で、哲学の側からみると、まずプロに匹敵する音楽の素養をもった哲学者がまれである。その上、近代哲学の枠組みのなかでは「音楽の本質とは何か」に答えることは難しい。近代哲学は「疑えるものは疑ってかかる」という批判的精神のゆえに、五感、および論理的思考を超えたものごとに対処するのが難しい。
 ところが、音楽の才能に恵まれた人にとって音楽の創造の過程はかなり無意識的なものである。「私が作曲(演奏)するのではなく、私を通して何ものかが作曲(演奏)するのである」と多くの音楽家が言う。しかも、(少なくとも顕在的には)音楽の才能はすべての人に平等にめぐまれているわけではないのが事実で、一般的な五感、論理的思考をもって音楽創造の過程を推し量るのは、泳いだことがない人が泳ぎの本質を考察するのと変らない。
 それゆえ、「音楽の哲学」という探求は、五感、理性を超えたものとならざるを得ない。
 一方、音楽家の側から出される理論的考察に対する懐疑は認めざるを得ない。音楽の本質は体験するしかない。単なる理論的考察は、アメリカに行ったことがなくて、アメリカ大陸が存在するかどうかを問うようなものである。
 それにもかかわらず、音楽教育や音楽療法において「音楽の哲学」は欠かせない。そこで、「音楽の哲学」という探求は、登りきったときには捨てるはしごのようなものだと考えるとよいと思う。それゆえ、わたしの「音楽の哲学」は理論書というよりはマニュアルのような体裁をとる。
[PR]

by detousbiens | 2007-12-11 12:23 | 音楽の哲学