チェンバロハウス通信

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2007年 12月 11日

音楽の哲学(その1)

 以下の文章は、ホームページ用に書きかけたものであるが、完成には時間がかかると思うので、少しずつこのブログにも載せておいて、批評をあおぎたい。

 日本の音楽に哲学がない、とはよく聞く嘆きである。
 音楽の哲学とは、音楽の本質を問うことである。
 音楽教育や音楽療法において、それは必要なことである。にもかかわらず、この分野に対する懐疑心も強い。

 真の音楽家は、音楽の現場においてのみ、音楽の本質が現れることを知っている。それゆえ、理論的考察によって音楽の本質が明らかになるという考えに懐疑的になるのは当然である。
 一方で、哲学の側からみると、まずプロに匹敵する音楽の素養をもった哲学者がまれである。その上、近代哲学の枠組みのなかでは「音楽の本質とは何か」に答えることは難しい。近代哲学は「疑えるものは疑ってかかる」という批判的精神のゆえに、五感、および論理的思考を超えたものごとに対処するのが難しい。
 ところが、音楽の才能に恵まれた人にとって音楽の創造の過程はかなり無意識的なものである。「私が作曲(演奏)するのではなく、私を通して何ものかが作曲(演奏)するのである」と多くの音楽家が言う。しかも、(少なくとも顕在的には)音楽の才能はすべての人に平等にめぐまれているわけではないのが事実で、一般的な五感、論理的思考をもって音楽創造の過程を推し量るのは、泳いだことがない人が泳ぎの本質を考察するのと変らない。
 それゆえ、「音楽の哲学」という探求は、五感、理性を超えたものとならざるを得ない。
 一方、音楽家の側から出される理論的考察に対する懐疑は認めざるを得ない。音楽の本質は体験するしかない。単なる理論的考察は、アメリカに行ったことがなくて、アメリカ大陸が存在するかどうかを問うようなものである。
 それにもかかわらず、音楽教育や音楽療法において「音楽の哲学」は欠かせない。そこで、「音楽の哲学」という探求は、登りきったときには捨てるはしごのようなものだと考えるとよいと思う。それゆえ、わたしの「音楽の哲学」は理論書というよりはマニュアルのような体裁をとる。
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by detousbiens | 2007-12-11 12:23 | 音楽の哲学


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