チェンバロハウス通信

cemhaus.exblog.jp
ブログトップ
2006年 03月 05日

「和魂洋才」ではいけない

 「和魂洋才」という言葉は古めかしい響きだが、今でも使われる言葉だし、また口に出して言わなくても同じような考えを持つ人は結構いるようである。私は「和魂洋才」という考えを捨てないかぎり日本の未来は貧しいままだろうと思う。
 「才」つまり技術は「魂」と切り離してはならない。私の経験では、ヨーロッパ哲学の技術もヨーロッパ音楽の技術もヨーロッパの魂の現れである。少し例をあげると、ヨーロッパ音楽の演奏に必要とされる「円を描いてはねあがるリズムの取り方」に基づく「軽やかさ」は古代ギリシア以来の合理精神の軽やかさに通じ、「音を直線的に押し出すのではなく空間にボール状に広げていく感覚」はキリスト体験につながっていくように思う。
 こういう「身体による気づき」は、論証することができず、実際に体験してみて各人が確認する、あるいは疑問をもつ、あるいは否認するしかないことだが、そういうあり方しかできない知識があまりに軽視されているように思う。
 おそらく実際には、「洋才」を必要とする現場(そうでない現場は今の日本では少ないと思うが)にたずさわる人は、現場の作業を通じて「洋魂」を心のどこかで体験していると思う。しかし、その体験がそのようなものとして認識されず、「和魂洋才」という本来無理な思想が、その貴重な体験を思想化するさいの障害となっている。つまり「和魂洋才」に縛られているかぎり、自己の体験を文化の豊かさへと結びつけることができないのである。
 かつては「和魂漢才」といわれたように、中国との交流においても同じような思想的貧しさの伝統があった。微力ながら「洋魂」「漢魂」の理解に尽くすことができればと思う。
[PR]

by detousbiens | 2006-03-05 14:31 | 日本人と西洋音楽


<< 「教育基本法改正案」について その1      フランス料理とフランスバロック >>