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チェンバロハウス通信

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2009年 03月 31日

新しい和声の教科書を作る

 前回のコンサート以来、民謡やポピュラー音楽とルネサンス・バロックの音楽の関係が気になり続けている。一番問題になるのは、いわゆるクラシックの音楽理論が役に立たないというか、障害物にしかなっていないことだ。

 大学に入って衝撃だったのは、高校までに学校で習ってきたことが実際の学問と大きくずれていることだった。実際にはこうも見られれば、ああも見られるのに、高校までの教程では、少なくとも基本的な事柄については研究者の見解は一致していて、定められた段階を踏まなければ基本を身につけられないという錯覚におちいってしまう。
 さらにやっかいなのは、「わかりやすさ」のために、現実を無視した「教科のための教科」(あるいは「客観的な」試験を可能にする教科)になってしまっていることだ。英語などは一番よい例だ。例えば日本語の教科書を作るとして、昔話を題材にして、「昔々あるところにおじいさんがいました」という文を、「あるところ」は一般的な言葉でないから「どこか」を使いたい、丁寧形はまだ習っていないから使わない、などといって「昔どこかにおじいさんがいた」と変えていいのだろうか?日本の英語教科書の英語はそのような例文に満ちている。

 話が脱線したが、クラシックの音楽理論書のほとんどは、英語の教科書と同じ間違いをしている。
 調的な和声は教会旋法の和声が基盤になっている。それを「機能和声」の名前のもとに、規則から説明しようとして実際の音楽から乖離した「学習和声」の世界を作ってしまった。音階は長調と短調しかない、和音の機能はトニック(T)、ドミナント(D)、サブドミナント(S)の3つで、和声進行はTDT、TST、TSDTに限るという前提では、バロック音楽は「調性確立以前の未発達の音楽」、ドビュッシーやストラヴィンスキーら20世紀の古典は無視、民謡もポピュラー音楽も「くずれた音楽」である。それどころか、「学習和声」の主要ターゲットであるバッハやベートーヴェンも、導音を下降させたり、平行8度、平行5度など「許されない規則違反」を行っているから、「天才は例外である」というしかない。
 勝手な推測かもしれないが、このような教科体系を作り上げた人々は、目の前の生徒たちの成績をあげるために、「段階を踏んで努力すれば習得できる体系」を善意で、しかもたいへん苦労して作り上げたのだろう。しかし、「学校英語」はリアルな英語への障害となり、「学習和声」もリアルな和声体験への障害となっている。
 音大を出た人たちは、たいがい「和声の授業で習ったことはすべて忘れた」とおっしゃるが、そのほうがまだいいかもしれない。ただ、受験英語や受験和声にかけられる膨大な労力を思うとやりきれない。
 そういうわけで、せめて初心者の実用には使える小冊子として、民謡、ポピュラー音楽、古楽、近現代の音楽を排除せず、クラシックの大作曲家を「偉大な例外」にしない簡単な教科書を書こうと思っている。
 今年のレクチャーコンサートは「言葉と音楽」をテーマに行う、ハウスコンサートもすると言っておきながら、こんな作業をしているうちにどんどん日が経ってしまった。はやくレクチャーとコンサートの日取りを決めたい。

by detousbiens | 2009-03-31 15:35 | 日本人と西洋音楽


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