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2010年 03月 19日
2010年度の予定
 2003年の秋に開業準備をはじめて今年の春でチェンバロハウスも7年目を迎える。人生の最初の6~7年が目に見えないところでその後の人生の歩みを支えているように、これまでの6年余のチェンバロハウスの活動もコンサートやセミナーなど外向きのもが少なくなりがちで研修・研究に時間をかけてきた。今年度はコンサート、セミナー、執筆などで発表の場を増やしたい。

 ハウスコンサートについては、今年度はイタリアバロックを中心に予定を組んでいる。6~7月頃にオーボエとのデュオ、ヴァイオリンとバロックのレパートリーでデュオの予定。秋にはバロックと近現代の作品をとりまぜてアンサンブルのコンサートができればと思う。ソロのコンサートはスカルラッティを弾く予定。

 教室のテーマである身体技法については、特別のコースを4月から設ける予定。体の使い方と楽譜の読み方を工夫すれば、少ない時間と楽な方法で効率的にしかも質の高い練習ができるというのが教室でいいたいことだが、楽曲を仕上げようとすると体の使い方についてはなかなか十分な時間を割くことができない。体の使い方に専念できる時間を作って、教室に通って下さっている方が気軽に参加でき、この問題について興味をお持ちの外部の方々も参加できるようにしたい。
 
 教室のテーマとしては、「言葉と音楽の関係」、「楽典の現代化と簡易作編曲法」についても講座の形にしたい。英語教育の分野ではようやく認知心理学の発展に呼応して教え方が工夫され、現場に即した英語教育を目指した試みをよく見るようになった(旧態依然の「英語でない英語」を「日本語でない日本語」に置き換えるだけのものも相変わらず健在のようだが)。音楽の学習と外国語の学習には似たところがあるので、参考になりそうだ。「音楽でない音楽」を教える音楽理論から、現場で使える音楽理論教程にならなければならない。
 
  「鍵盤楽器演奏における体の使い方」「言葉と音楽」「わかりやすく使える音楽理論」ということについては本としても読めるよう、出版社の方とも相談しながら執筆中である。

 これらについて、日程、内容等の詳細が決まり次第ホームページの方に書き足していきたい。

# by detousbiens | 2010-03-19 15:19 | コンサート案内
2009年 12月 25日
インターネット復活
 ほとんど1ヶ月ぶりにインターネット環境が復活しました。
 教室に通ってくださっている方々、体験レッスンやレンタルスペースのお申し込みをいただいている方々にはご不便をおかけしました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

# by detousbiens | 2009-12-25 23:50
2009年 11月 27日
明日から自宅の引越し
 前回の記事を書いてから、演奏会、レクチャーの構想がひろがりすぎて秋の開催予定にずれこんでいたところ、夏の終わりごろからさまざまな事情があって結局2009年の計画は来年に先送りするしかなくなってしまった。更新がほとんどないのにこのページをチェックして下さっている方々には本当に申し訳ない。
 さまざまな事情のひとつが自宅の引越しで、今のマンションから2ブロック先のマンションに移るだけだが、プロバイダの都合で、明日(11月27日)の引越し後、2週間から1ヶ月にわたってインターネットに接続できないことがわかった。
 教室は何も変わらないので、レッスン、レンタルなどは通常通り行いますが、メールはおそらく受信・送信ともできません。コメントの閲覧は間違いなくできません。しばらくご迷惑おかけしますが、インターネット環境が復活しましたら、このブログでもお知らせします。

# by detousbiens | 2009-11-27 00:37
2009年 03月 31日
新しい和声の教科書を作る
 前回のコンサート以来、民謡やポピュラー音楽とルネサンス・バロックの音楽の関係が気になり続けている。一番問題になるのは、いわゆるクラシックの音楽理論が役に立たないというか、障害物にしかなっていないことだ。

 大学に入って衝撃だったのは、高校までに学校で習ってきたことが実際の学問と大きくずれていることだった。実際にはこうも見られれば、ああも見られるのに、高校までの教程では、少なくとも基本的な事柄については研究者の見解は一致していて、定められた段階を踏まなければ基本を身につけられないという錯覚におちいってしまう。
 さらにやっかいなのは、「わかりやすさ」のために、現実を無視した「教科のための教科」(あるいは「客観的な」試験を可能にする教科)になってしまっていることだ。英語などは一番よい例だ。例えば日本語の教科書を作るとして、昔話を題材にして、「昔々あるところにおじいさんがいました」という文を、「あるところ」は一般的な言葉でないから「どこか」を使いたい、丁寧形はまだ習っていないから使わない、などといって「昔どこかにおじいさんがいた」と変えていいのだろうか?日本の英語教科書の英語はそのような例文に満ちている。

 話が脱線したが、クラシックの音楽理論書のほとんどは、英語の教科書と同じ間違いをしている。
 調的な和声は教会旋法の和声が基盤になっている。それを「機能和声」の名前のもとに、規則から説明しようとして実際の音楽から乖離した「学習和声」の世界を作ってしまった。音階は長調と短調しかない、和音の機能はトニック(T)、ドミナント(D)、サブドミナント(S)の3つで、和声進行はTDT、TST、TSDTに限るという前提では、バロック音楽は「調性確立以前の未発達の音楽」、ドビュッシーやストラヴィンスキーら20世紀の古典は無視、民謡もポピュラー音楽も「くずれた音楽」である。それどころか、「学習和声」の主要ターゲットであるバッハやベートーヴェンも、導音を下降させたり、平行8度、平行5度など「許されない規則違反」を行っているから、「天才は例外である」というしかない。
 勝手な推測かもしれないが、このような教科体系を作り上げた人々は、目の前の生徒たちの成績をあげるために、「段階を踏んで努力すれば習得できる体系」を善意で、しかもたいへん苦労して作り上げたのだろう。しかし、「学校英語」はリアルな英語への障害となり、「学習和声」もリアルな和声体験への障害となっている。
 音大を出た人たちは、たいがい「和声の授業で習ったことはすべて忘れた」とおっしゃるが、そのほうがまだいいかもしれない。ただ、受験英語や受験和声にかけられる膨大な労力を思うとやりきれない。
 そういうわけで、せめて初心者の実用には使える小冊子として、民謡、ポピュラー音楽、古楽、近現代の音楽を排除せず、クラシックの大作曲家を「偉大な例外」にしない簡単な教科書を書こうと思っている。
 今年のレクチャーコンサートは「言葉と音楽」をテーマに行う、ハウスコンサートもすると言っておきながら、こんな作業をしているうちにどんどん日が経ってしまった。はやくレクチャーとコンサートの日取りを決めたい。

# by detousbiens | 2009-03-31 15:35 | 日本人と西洋音楽
2008年 12月 20日
ハウスコンサートその後
 ハウスコンサートが終わって1ヶ月も過ぎた。11月9日、11月16日の2回とも満員のお客様に来ていただいた。来てくださった方々、本当にありがとうございました。
 さて、ハウスコンサートとなると、それを機会に自分の中で何か隠しテーマを設定して追求しようという気になる。今回はアメリカの音楽学者でレ・ザール・フロリサンに「修辞学者」として協力したこともある Patricia Rarum の The Harmonic Orator という本を読んで、言葉と音楽の関係をあらためて勉強することにした。
 この本は、1660~1730年頃のフランスバロック音楽について、フランス語詩の構造や朗誦法がどのように音楽化されているかを、約500ページ使って懇切丁寧に説き明かしている。ページ数を使うことを恐れず、予備知識のほとんどない読者に手取り足取りという感じで「実際にできるように」導くというスタイルがいかにもアメリカの本らしく、たいへん良かった。(ヨーロッパの本は理論的に美しく書かれているけど、親切ではないことが多い。その意味では日本の学者の本に似ている。アメリカの本は、学者の本でも実用書のように本文の内容が図解され、章ごとにまとめと理解度を確かめるための練習問題がついていることが多い。これはやはりアメリカの美点だと思う。)
 それで、今回は The Harmonic Orator に集中できたかというと、もちろんそんなことはなく、興味はどんどん脱線していった。まず他の言語の詩学にも興味がわいてきた。日本語の詩学については梅本健三の「詩法の復権」というたいへん興味深い本に出会えた。そんなわけで、2009年のレクチャーシリーズは歌詞と音楽の関係についての入門講座にしようと考えている。
 もうひとつは、バードとクプランをならべて弾くことの意味を考えようとして、中世~ルネサンス~バロックの音楽スタイルの変遷にポピュラー音楽の影響が大きいのではないかという仮説に思いいたったことだ。これは大きなテーマなので、項を改めて書こうと思う。

# by detousbiens | 2008-12-20 14:33 | コンサート案内
2008年 10月 05日
鍵盤楽器の演奏法
コンサート本番まで気楽に書いていこうと思いながら、なかなか難しい。あっという間に一週間たってしまった。CDの紹介や歴史の話を書こうと思っていたのだが、時間に少し余裕があると根本的な問題にとりくみたくなる。

私の鍵盤楽器奏法の立脚点は3つある。

第1は身体技法だ。スポーツに、体の仕組みについての知識と合理的な練習法が効率的であるように、鍵盤楽器の演奏にも身体技法が大いに役立つ。音楽は、演劇やダンスのように動きの藝術である。身体感覚が身につくと、楽譜も動きの軌跡として見えてくる。そこまでいかなくとも、体に無理を強いないことは楽だ。

第2の立脚点は、言葉と音楽の関係についての知識である。何といっても西洋音楽の主流は声楽だ。とりわけ、バロック音楽は声楽がメインで器楽はデザートのようなものだと思う。そうなると、独力で歌詞を読み込むことは難しくても、対訳をみながら何を言っているか分かる程度には語学ができないとおもしろくない。
西洋には数理的ともいえる詩法の伝統がある。西洋音楽のフレージングはもともと詩法に基づいている。要求が高いかもしれないが、ラテン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語などの韻律法を知らないで演奏するというのは(声楽であれ器楽であれ)、知らない言語で演じている役者のようなものだと思う。

第3は哲学である。西洋の精神史に学べることは多い。身体的な技術に優れても、西洋音楽の修辞法を身につけていても、西洋の人々が長い歴史のなかで希求してきた思いに心が閉ざされているのでは悲しい。

西洋の精神史を知るためには、いわゆる「哲学」はまわりくどい。西洋には哲学的な詩や宗教的な詩が多いので、詩を入り口にしてはどうだろうか。韻律法の勉強もできて一石二鳥だ。

# by detousbiens | 2008-10-05 13:20 | 日本人と西洋音楽
2008年 09月 27日
久しぶりのハウスコンサート
 11月9日(日)と16日(日)、昨年の夏以来のハウスコンサートをすることにした。久しぶりの自主公演になる。ここ数年、演奏の身体技法を学んできて自主公演は休んでいた(ソロはほぼ2年ぶり)。再開にあたって何を弾くか迷ったが、チェンバロ音楽のなかでもっとも好きなウィリアム・バードとフランソワ・クプランの作品を中心にプログラムを組むことにした。
 バードはイギリスのエリザベス一世時代の作曲家で、1543年の生まれで1623年に亡くなっている。1543年といえばポルトガル人が種子島に来た年である。同じ名前のウィリアム・シェイクスピアは1564年の生まれ。シェイクスピア劇に登場する流行歌の数々をバードもとりあげて、チェンバロ曲にしたてている。
 バードの時代から100年以上を経て、フランソワ・クプランはフランスのルイ14世時代を生きた。ヴォルテールはルイ14世の時代を、古代ギリシア、古代ローマ、イタリアルネッサンスとならび、さらにそれらを超えた人類文化史上最も輝かしい時代と呼んでいる。フランス国王の栄光が演じられたヴェルサーユ宮殿に勤めながら、後の時代のショパンにも似て、クプランは内気で完璧主義的な作品を書いた。
 ストラヴィンスキーは晩年、「いまあなたが一番楽しめる音楽は何ですか?」と聞かれて「私は、イギリスのヴァージナリスト(バードやその同僚ブル、ギボンズらのこと)をひいてみるごとに、かならず楽しみ、失望したことがない。それからクープラン、・・・」と答えている。20世紀音楽への興味からバッハ以前の音楽に入った私としては、両者を結ぶ糸を見つけたい。
 ハウスコンサートの本番まで、バードやクプランの音楽について、また文化的背景や現代とのつながり、練習過程で気づいたことなど、気のおもむくまま書いていければと思う。

# by detousbiens | 2008-09-27 00:29 | コンサート案内
2008年 01月 01日
音楽の哲学(その3)
 わたしたちの時代の課題は、人類意識を育てることである。日本人の場合は、日本文化と西洋文化との出会いを実りあるものにすることが大きな課題である。
 大雑把な言い方をすれば、日本文化は分離を抑圧しているのに対して、西洋文化は分離から出発している。別の言い方をすれば、日本文化は和を尊重し、西洋文化は個性を尊重する。
 ところが、洋の東西を問わず、いわゆる精神性の高い人の説くところは、oneness(1つであること)である。それで単純に日本文化の方が優れているように錯覚する人もけっこういる。
 しかし、そうではない。
 日本文化には和を尊重するあまり、分離感が生ずることへの抑圧がある。「村八分」とか「出る杭は打たれる」などの言葉によって表される社会的経験に日本で暮らす人は思い当たるであろう。
 また「和」をうたっていても無差別な受容を実行しているわけではない。日本人は善悪というより美しさを行動の基準にするという説があるが、これが曲者で、清らかさを尊ぶ感覚が「穢れ」への差別・抑圧・抹殺として現れやすい。

 一方、西洋の分離の立場は、今や地球規模の危機である南北問題(貧富の格差の問題)、環境破壊を生んだ。西洋文化が世界を牛耳った背景には西洋の学問があるが、西洋の学問は「自分とは分離した対象として世界の物事を見ることができる」という素朴な見方に依存してきた。客観的な認識が究極的な真理への道として可能であるという大きな錯誤があった。
 これと似た態度の芸術における現れが、客観的対象として「作品」が成り立つという錯誤で、19世紀にはコンサートホールや美術館にあるのが芸術だという思いこみにまでなってしまった。

 いわば反対方向に迷った二つの文化が19世紀中頃に出会ったわけだが、重要なことは、現代の状況がここに留まらないことである。
 20世紀初頭に、西洋の学問は客観的な手段でもって客観性が絶対的なものとしてはなりたたないことを知る段階に至った。数学の基礎をめぐる論争や量子力学の誕生にまつわる論争を調べるとそのことがよくわかる。(興味のある方は、ゲーデルの不完全性定理やハイゼンベルクの不確定性原理などの言葉を手がかりに検索されるとよい)
 芸術の分野でも、20世紀初頭に、伝統的な調性にとらわれない音楽や、目に見える風景にとらわれない美術が現れてきた(文学については19世紀からその変革は始まっていると思う)。

 日本人は古い西洋と新しい西洋に出会わねばならない。
 事態をややこしくしているのは、西洋の自己変革から約100年が過ぎたにもかかわらず、学問の世界でも芸術の世界でも、この新しい波が(程度の差はかなりあるとはいえ)西洋においても日本においても一般大衆のレヴェルには浸透していないことである。コンピュータ、核技術、映画音楽、街のオブジェなど、応用結果は現代の生活に欠かせないものになっているにもかかわらず、その根本的な考え方に対する拒絶反応はまだまだ強い。

 ここには現代の西洋と日本が共通して直面している問題がある。

# by detousbiens | 2008-01-01 04:10 | 音楽の哲学
2007年 12月 30日
音楽の哲学(その2)
 日本人が西洋音楽を学ぶということは、西洋人が能や歌舞伎を学ぶのに似ている。当然、多くの障害がある。それらの障害を大雑把にいうと、①身体のつくりや所作の違い、②言語の特性の違い、③哲学(世界観)の違いである。これらは乗り越えがたいが、互いの立場を想像することは可能である。
 しかしながら、日本では「和魂洋才ではいけない」でもとりあげたとおり、本質的な部分(魂)を排除して、表面的な結果のみをとりいれようとする態度が、無意識的あるいは意識的にも強い。
 なぜなら「相手の立場を想像する」ということは、自分自身の根本的な変化につながるからである。日本人は「日本人であること」にこだわる人が多い。外国との比較が問題になるとき、「わたしたち日本人は」と言ったり書いたりする人が多いことにもそれは端的に現れている。日本人の日本人性を規定している哲学は無意識的なものである。表面的には変幻自在であるが、核の部分は無意識的であるだけに頑として変らない。もっと言うと排他的である。
 西洋音楽は、「西洋」とわざわざいうのが不自然なほど日本人にとって身近な存在になっている。それにもかかわらずその本質が理解されることは少なく、日本人の実践する西洋音楽は「どこか違う」し、それを鑑賞するポイントも「どこか違う」。これまでは、「日本人が西洋音楽に接してそれほど間がないのだから、理解がおよばないのは仕方がない」という人も多かったが、「理解がおよばない」というよりむしろ、かなり無意識的ではあるが「理解したくない」という面が強いのではないかと、私には思える。
 しかし、物質的な側面では国際化が既成事実である世界で、精神面において排他的でいることは危険である。勇気を奮って、自己変革を恐れずに、他文化の魂を理解しようと努める必要がある。                                              

# by detousbiens | 2007-12-30 09:57 | 音楽の哲学
2007年 12月 11日
音楽の哲学(その1)
 以下の文章は、ホームページ用に書きかけたものであるが、完成には時間がかかると思うので、少しずつこのブログにも載せておいて、批評をあおぎたい。

 日本の音楽に哲学がない、とはよく聞く嘆きである。
 音楽の哲学とは、音楽の本質を問うことである。
 音楽教育や音楽療法において、それは必要なことである。にもかかわらず、この分野に対する懐疑心も強い。

 真の音楽家は、音楽の現場においてのみ、音楽の本質が現れることを知っている。それゆえ、理論的考察によって音楽の本質が明らかになるという考えに懐疑的になるのは当然である。
 一方で、哲学の側からみると、まずプロに匹敵する音楽の素養をもった哲学者がまれである。その上、近代哲学の枠組みのなかでは「音楽の本質とは何か」に答えることは難しい。近代哲学は「疑えるものは疑ってかかる」という批判的精神のゆえに、五感、および論理的思考を超えたものごとに対処するのが難しい。
 ところが、音楽の才能に恵まれた人にとって音楽の創造の過程はかなり無意識的なものである。「私が作曲(演奏)するのではなく、私を通して何ものかが作曲(演奏)するのである」と多くの音楽家が言う。しかも、(少なくとも顕在的には)音楽の才能はすべての人に平等にめぐまれているわけではないのが事実で、一般的な五感、論理的思考をもって音楽創造の過程を推し量るのは、泳いだことがない人が泳ぎの本質を考察するのと変らない。
 それゆえ、「音楽の哲学」という探求は、五感、理性を超えたものとならざるを得ない。
 一方、音楽家の側から出される理論的考察に対する懐疑は認めざるを得ない。音楽の本質は体験するしかない。単なる理論的考察は、アメリカに行ったことがなくて、アメリカ大陸が存在するかどうかを問うようなものである。
 それにもかかわらず、音楽教育や音楽療法において「音楽の哲学」は欠かせない。そこで、「音楽の哲学」という探求は、登りきったときには捨てるはしごのようなものだと考えるとよいと思う。それゆえ、わたしの「音楽の哲学」は理論書というよりはマニュアルのような体裁をとる。

# by detousbiens | 2007-12-11 12:23 | 音楽の哲学


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